■掲げられた「救護所」の垂れ幕
ロイヤルホテルの建物は古く、ロビーも最近のホテルに較べると狭い。ソファーが4〜5組、その先は右手奥にあるコーヒー・ショップがはみ出してテーブルを並べている。正面一番奥は、大時代的なゆるいカーブの螺旋状階段になっている。
ドアを入って左手は、旅行代理店のカウンターとキオスク。ソファーとキオスクにはさまれた狭い空間の先がレセプションになっている。
このロイヤルホテルのロビー風景が、後日、テレビや新聞で生々しく映し出されることになる。そして、それは惨劇のシーンをともなってである……。
午後6時前後。ロイヤルホテルと広報局にはさまれたラーチャダムヌーン通りの開始点の交差点で、最初のタンクローリーが放火されたそのころ、周囲はまだ薄明るかった。それを取り囲んで見ている人々の顔にもまだ緊張はなく、この火が消えればそれ以上の混乱はないだろうという気がする。参集して市民の数も、17日夜から18日未明にかけて同通りに座り込んだ人々の密度に較べれば、極めて薄い。「民主化要求の市民たちはもう負けを認めたのだろうか」、という憶測が胸を過る。
しかし、午後7時を回り、周囲が闇に包まれるころになると、タンクローリーに続いて何台かの車が放火され、人々の密度も濃くなっていた。前述したように、ラーチャダムヌーン通りの民主記念塔からパンファー橋にかけての部分、そしてトンブリ地区とを結ぶピンクラオ橋は国軍各軍による完全封鎖が実施されていたが、ロイヤルホテル南側の路地、そして王宮前広場脇のアッサダーン通りやラーチャニー通りの通行は、車両含めて規制されていなかった。
この後、集まっていた市民の一部が路線バスでラーチャダムヌーン通りにバリケードを築くが、それらのバスは同通りに走っていた車両ではない。路線番号から判断すると、王宮南のパーククローン市場周辺で“バス・ジャック”され、アッサダーン通りかラーチャニー通りを通ってロイヤルホテル前まで来ているのである。
政府当局、その実行部隊としての国軍が、18日午後3時に行ったパンファー橋での“クリア”の後、民主化要求の市民たちの再びの参集を未然に防ぎたかったのなら、なぜその周辺も完全封鎖しなかったか? ピンクラオ橋はもう閉鎖されており、そこを完全閉鎖してもバンコク地区とトンブリ地区を結ぶバスの大動脈を利用する“一般市民”の生活に影響を与えることがすでになくなっていたというのに……。何度もくりかえすが、ロイヤルホテルから民主記念塔までの袋小路に作為的に人々が集まるように、国軍は意図していたのではないか。キナ臭いものがそこにある。
ロイヤルホテル前のラーチャダムヌーン通りは、南にゆるくカーブしている。だから、ホテル正面にさえいれば、民主記念塔付近で阻止線を張っている国軍兵士たちが万一突然に発砲してきても、ホテルが遮蔽物となり被弾することはない。しかし、タンクローリーなどが放火されている広報局や東隣の宝くじ事務所の建物の前に近づけば、民主記念塔方面からは直線で見通せ、発砲されたら路上に伏せるしか逃げる術がない。放火された自動車の炎の数が徐々に増えるを見て、再び今夜も流血の衝突があるのではという、嫌な予感が頭をもたげてきた。
緊張が徐々に高まってきていたが、ロイヤルホテルは赤いネオンサインを灯し、宿泊客以外の誰でも自由に出入りをさせてくれていた。周囲に集まっていた市民も、最終的にはここがただ一カ所の安全な“シェルター”になる、と見ていたに違いない。やがて、ホテルの入口に「救護所」という垂れ幕がかかった。ホテルのレセプションとキオスクの間の狭い空間にビニール紐を張ってスペースを確保し、てきぱきと応急処置の準備が整えられていく。まだインターンといった感じの若い医師たちが、手術用の緑色の前掛けを付けて歩いている。対照的に、看護婦は中年層が多い。
彼らは、そこからチャオプラヤー川をはさんだトンブリ地区にあるタイ有数の国立総合病院シリラート病院、これまでの市民側の集会に一貫して医療団を派遣していたバンコク都中央病院など、いくつかの病院の混成医療チームであった。前者には、マグサイサイ賞受賞者でタイNGO運動の理論的指導者のプラウェート医師(血液学)や、『民主連合』世話人の1人サン医師(小児科)らがおり、リベラル活動家の医師が多いことで知られている病院である。
「ロイヤルホテルが今夜の“野戦病院”になりそうだ……」
新聞記者たちが社にそう電話を入れ始めた。
午後8時を過ぎると、狭いロイヤルホテルのロビーは肩と肩が触れ合うような混み方となった。何か危険の兆しを感じてこの“シェルター”に逃れた市民たち、ベータカムを肩に乗せた海外テレビ局のクルー、そして運の悪いことにその日そこに泊まっていた観光客……。
奥のコーヒー・ショップは、パニック映画の1シーンのようだった。満杯だが、料理材料がなくなってしまっていて、あるのは水道水だけ。何も乗っていないテーブルを囲み、不安そうに話しているグループ、テーブルに突っ伏して眠っている人もいる。
(つづく)