■運命のロイヤル・ホテル
ロイヤル・ホテルは、タイ語でラタナコーシン・ホテルという。タイの現王朝の名を冠し、王宮前広場前という一等地にあるが、最近のツーリストが求める雰囲気のいいレストランなどの施設がないため、二流のホテルとして扱われている感がある。
5月18日午後3時過ぎ、国軍兵士らがスチンダー首相退陣・民主化を要求する市民たちの「実質的」トップ・リーダーであったジャムロン前バンコク知事を拘束、ラーチャダムヌーン通りに残っていた市民たちの一部を連行した。しかし、M16を持った兵士たちに同通りを追われた市民たちは、そのまま逃げ帰ったわけではなかった。兵士たちがラーチャダムヌーン通りに通ずる道路とバリケードで閉鎖した後もそこに留まり、抗議の声を上げ続けていたのである。
政府当局はジャムロンの他、「民主連合」の世話人のプラティープ元「プラティープ財団」理事に対しても拘束命令を出していた。後述するが彼女は難を逃れ、拘束を免れている。そのことは、17日日曜日午後の同連合主催の集会、首相官邸へのデモ、パンファー橋における警官隊そして武装国軍兵士との衝突・・・・と動いてきた市民たちのリーダーたちが不在になってしまったことを意味する。だが、リーダーたちを失った市民たちがどうしようもなく混乱し、バラバラに動くようになってしまったわけではない。
「不退転、しかし非暴力」、リーダーたちが繰り返したいたこの言葉にそって自然発生的に一つの方向性が生まれたいた。それが、「再び集まろう王宮前広場へ!」という声だったのである。
そして、市民たちが実際に集まったのは、正確にいうと王宮前広場ではなく、その手前の交差点。前述のロイヤル・ホテルと政府の広報局ビルに挟まれた、ラーチャダムヌーン通りの始点にあたる場所であった。奇しくもそこは、1973年の「学生革命」のときに腐敗したタノム・プラパート政権を打倒するために参集したタイ全国の学生・市民と国軍が衝突した場所である。ロイヤル・ホテルが傷ついた学生・市民のために開放され、野戦病院さながらになった・・・。実際に19年前と同じ光景がここで展開されることになるのだが、少なくとも19日の夕暮れまで、このロイヤル・ホテルはホテルとして機能していた。
ロイヤル・ホテルのロビーに入ると、これからバンコクのナイト・ライフを楽しみに行くつもりの観光客が上気した顔で歩いている。むろん、彼らの多くも、前夜に近くのパンファー橋のたもとで何が起こったのかは知っていたのだが、今夜再び同じようなことが身近の起こるとは考えていなかったようだ。18日の午後4−5時、「王宮前広場へ!」という自然発生的な声に従って市民たちがホテルの近くに集まりだしていたが、危険な感じはまだしていなかったこともある。
日本人の若い女性の二人連れが、「今夜、あんまり遅くなっちゃうと、この辺に入れなくなるかもね・・・」といいながら、外へ出ていった。彼女らのそのカンは当たっていたのである。それからわずか3時間後には、このホテルの玄関前に国軍兵士からのM16自動小銃から発射された強化合金製のNATO弾が飛び交ったのであるから・・・。
混乱が起こる前、ロイヤル・ホテルのロビーには、観光客とは別にもう一つのグループ、ジャーナリストたちが闊歩し情報を交換していた。タイのマスコミは幅広い。若者に人気のファッション雑誌の記者まで来ている。日本のマスコミは、日本の大手新聞とテレビ局、インドシナ報道で知られるフリー・ジャーナリストらの顔が見える。今や世界の紛争の「トップ屋」となった感のあるCNNのクルーも来ていた。
しかし彼らの中に、なぜ国軍がラーチャダムヌーン通りから残っていた市民を排除し、パンファー橋側は水も漏らさぬような封鎖を実施しているのに、王宮前広場の側はなぜ警備が「ゆるい」のかについての疑問を呈する人間はいなかった。5月の西日がやっとかげるようになったころ、「王宮前広場へ!」の声で集まった市民たちは、ラーチャダムヌーン通りを少しづつ東側に・・・そこでは国軍兵士が「阻止線」を作っていた・・・に入り込んでいった。なぜかそこだけ「阻止線」が凹状になっていたのである。その中で、ワーッと声が上がる。ラーチャダムヌーン通りに止めてあった車が放火されたのだ。
(つづく)