■待ちわびた朝の光
まるで夜空に赤い筋を描いたような曳光弾の発射を合図に始まった、国軍の『パイレー・ピナート(敵殲滅)作戦』。最初の何の警告もなかった無差別水平射撃ですでに数人の死傷者が出ていたが、それに怖じずにそのままラーチャダムヌーン通りに座り込んでいた市民たちに対し、国軍兵士は朝までさらに数度に渡って発砲を繰り返した。そこに居合わせた人々にとってはとてつもなく長く感じられた5月18日の夜が明けるまで、さら多くの無抵抗・非武装の市民が死傷したのである。
宣伝カーに乗った指導者の「モープ(伏せろ)!」の声で一斉にアスファルト路面に突っ伏し、銃撃が止むと一斉に立ち上がり「ウォー」という喚声でこちらの不退転ぶりを兵士に誇示する−−夜が明けるまで、この繰り返しが何回あっただろうか……。当時は皆が興奮していたため、正確にその回数や時刻を覚えている市民は少ない。後になって「5月の惨劇」を記録したビデオを見たりして、やっと起こったことを時間軸にそって正確に再確認できたという人が多いのである。
実際に発砲している国軍兵士の姿が見えるのは、パンファー橋のたもとにいる“最前線”の市民の一部だけ。通りを埋めつくしているほとんどの市民には、「パンパンパン」というM16自動小銃の乾いた銃声しか聞こえてこない。どこから狙われているかわからないから、かえって恐怖心が募る。M16から発射された強化合金製の弾丸の飛距離は遠く、パンファー橋からは300メートルほど離れた民主記念塔周辺で流れ弾に被弾しても死傷する可能性は充分にある。橋から離れていても、銃声が聞こえたらとにかく路面にぴったり伏せていないと危険な状態に変わりなかった。
しかし、中には恐怖で泣き出したりパニック状態になっている市民もいることはいたがそれは少数で、ほとんどの市民はそのまま座り込んでその場を離れず、夜明けをそこで迎える覚悟をくずさなかった。ラーチャダムヌーン通りを反対側に、つまり王宮前広場の近くまで行けば同通りの外に出て帰ることは可能だったが、闇夜の路地の奥では何が待ち受けているかわからずかえって危険という判断もある。それに、朝日が差し込んで周囲が明るくなれば国軍兵士の配置もはっきりするし、何より18日は月曜日で朝になって通勤者が周囲に現ればこの様子を直に目撃してくれる−−一刻も早く夜が明けてほしい、これがアスファルトに伏せながら市民が願っていたことであった。
「トゥン・ウェラー・レーオ(もう潮時だよ)!」
という囁きが近くで聞こえる。夜明けまでの長く長く感じられる時間の中で、市民たちが囁いていた話題のひとつに、「いつ国王が介入するか」ということがあった。この混乱状況−−スチンダー首相や国軍が破局も厭わない暴走ぶりを見せ始めていた−−をすぐにストップさせることができる人間は国王しかいない、というの思いがそこに居合わせたタイ市民ほとんどの脳裏に去来していたことは間違いないだろう。
その意味で、18日未明午前5時すぎの何度目かの銃撃は、非常に象徴的かつ不可解だった。ほのかに東の空に薄明かりが差してきたころ、宣伝カーの指導者の呼びかけで市民たちが全員起立、国王賛歌を歌い始めたのである。そのときはまだ偏向報道を続けていた電波メディアは、スチンダー首相退陣と民主化を要求して17日夜の集会からデモに出ていた市民たちを、首相官邸を目指すのではなく王族の住むチットラダー宮殿に向かっている“暴徒”と決めつけていた。そのいいがかりをどうにかして晴らしたい、という市民たちの思いが未明の国王賛歌合唱にはあった。
また、それは賭でもあった。国王賛歌を歌うのには起立する必要があるので、もし仮に歌っている最中に非武装で体をさらしている市民を国軍兵士が撃つようなことがあれば、国軍の方こそ“暴徒”である、とタイの人々は思想の違いに関係なくそう理解してくれるだろうからだ。電波メディアはまったく頼りにならなかったが、この情景を目撃した人々が周囲の人々に口コミで伝えてくれるだろうと……、と市民たちは賭けていたのである。
(つづく)