バンコク・ドキュメント

 惨劇と化した5月の3日間 (第15回)

 

 


■ナーンルーン警察署炎上をめぐるミステリー(3)

 “5月の惨劇”が一段落した後、ナーンルーン警察署炎上事件のミステリー性をめぐって論議が起きた。スチンダー首相退陣要求の市民たちが“暴徒”と化したというもっとも強力な“証左”として使われ、直接的間接的にも軍部による18日未明の市民への無差別発砲をもたらす要因となった、この事件の真相を明らかにすることが必要だからである。

 そのとき話題になったのが、『デーリー・ニュース』(『タイ・ラット』紙に次ぐ売上第二位を誇るタイ語大衆紙)に載った、ナーンルーン警察署の前で警察官用防弾チョッキを着用した青年たちが同署の金庫らしきものを壊している写真である。軍部の蛮行を批判する民主主義要求の市民運動側は、この写真こそ警察官自らがナーンルーン警察署の破壊行為を行った証拠、と主張した。そのような主張はそのとき、同署が意図的に“明け渡された”か、もしくは警察自らが火を放ったという情報が複数の箇所からあがっていたからである(警察および国軍幹部など当局のこの事件への関与については後述)。


 しかし、当時ナーンルーン警察署近くで取材に当たっていた日本人カメラマンの目撃では、同署の近くで防弾チョッキを着て歩いていたのは同署からそれを奪った人間たちで、写真に写っている金庫を壊しているのも警察官ではない、つまり市民運動側の指摘は当たっていない、という。


 ナーンルーン警察署の破壊を行った人間は、一体誰たちなのだろうか? 残念ながら、現時点まででは、彼らが誰でどこから来たのかを断定できる決定的証拠は提出されていない。“上部”の秘密命令を受けた私服姿の警察官や国軍特殊部隊であったかも、右派など“ムー・ティー・サーム”の挑発であったかも、先走ってしまった市民の暴走であったかもしれないのである。

 ただし、断言できるのは前述のように、ナーンルーン警察署付近の外ラーンチャダムヌーン通り一帯がかなり長い時間“盲腸”状の“解放区”として“放置され”ていたことで、誰たちであれ、同署の破壊を行うことがそれほど難しい状況ではなかったこと。そして、最後にはまるで同署を“明け渡したか”のように、“解放区”の真ん中の署内に仲間たちから“取り残されていた”警察官たちが降伏、そっと逃げ出していることである。

 もう一点確かな点として補足したいのは、この“解放区”で破壊された施設が、消防車などの警察関係の車両とナーンルーン警察署の建物(青少年保護センターを含む)に限られていること。“解放区”のエリアに入っていた農林農協省や内務省公共施設局の建物、外ラーチャダムヌーン通りにつながるラーンルアン通りやナコンサワン通りに並んでいる一般商店は、まったく破壊行為を受けた形跡がないのである。これは、その破壊を行った者が誰かということはさておき、ひとつの方向性−−警察関係の施設だけを破壊する−−をもって行われたことを示している。もしパニック状態の中での無秩序な破壊行為なら、パンファー橋にもっとも近い内務省公共施設局などがその対象として狙われていたはずだからである。


 そして、当局からは早々と実際の炎上時間より早くナーンルーン警察署の炎上が、マスコミに流布されていったというミステリー。このような同署炎上事件の一連のミステリーにはどれも、何かの画策のきな臭さがすることは誰でもが認めるはずだ。時間と人々の努力が、この事件の真実を明らかにするときがくるだろう。




■未明の赤い曳光弾(1)


“5月の惨劇”の後でおびただしい数のその記録ビデオが出回ったが、迫真だったのは電波メディアのプロが撮ったと思われる映像で、当時は電波に乗せることができなかったものを編集したらしいものだ。その証拠として、国軍兵士の後ろ側から撮っている。つまり、当時国軍の了解を取りつけることのできたマスコミでしか撮れない角度からの映像なのである。


 そこには、ナーンルーン警察署が炎上した後の18日午前4時近く、武装した国軍兵士がラーチャダムヌーン通りの暗闇の奥から“解放区”を制圧、パンファー橋周辺に配備に付く様が写されている。このころ、パンファー橋の西側で座り込んでいた多くの市民は、疲れから新聞紙で体を包み、ぐっすり寝込んではいないものの、アスファルトの上に横になっていた。パンファー橋間際にいた一部の市民を除くと、橋の向こうの“盲腸”状の“解放区”の中でナーンルーン警察署が炎上していたことも知らなかったし、まして国軍兵士が動き始めていたということなどまったく知らなかったのである。この時間では、途切れがちだった宣伝カーからの指導者の声も、それを教えてはいなかった。



 国軍兵士にパンファー橋を部隊で制圧封鎖せよという最終的な“ナー・ドゥーン−−前進”命令が“上部”から下ったのは、18日午前3時55分といわれている。しかし、これより先、一部のマスコミには「午前4時、国軍が“クリア”開始」という情報が漏れていたようだ。“解放区”の中で取材をしていた『ネーオ・ナー』紙(軍部に極めて近い新聞として知られるが、反スチンダー大将系である)の女性記者の手記を読むと、彼女が同日午前3時45分に新聞社に電話したとき、デスクから「市民とマスコミの区別なしに“クリア”だ。すぐにそこから退去せよ」という命令を受けたと書いている。


 しかし、ラーチャダムヌーン通り周辺にいた多くの市民たちは、“クリア”がすぐ先に迫っていることを知らなかった。そして午前4時10分ごろ、眠気と戦いながら指導者の声に耳を傾けていた市民は、突然、未だ明けない空に走る曳光弾の赤い閃光を目撃する。続いて、M16自動小銃らしい、パンパンという軽い銃声。本当の惨劇が始まったのである。



(つづく)


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