■ナーンルーン警察署炎上をめぐるミステリー(1)
パンファー橋の手前で座り込んでいたスチンダー首相退陣要求運動の市民たちも、零時を過ぎて18日に入り午前1時、2時ごろになるとさすがに疲れはて、ラーチャダムヌーン通りの路上に新聞紙を敷いて寝込む人が増えてきた。先頭の宣伝カーからの放送も、30分に1回くらいのインターバルになり、「みんな、まだ元気か?」という確認呼びかけ調になった。ジャムロンも宣伝カーの中にはいるようだが、演説はすでに17日深夜から他のパランタム党幹部が代わっている。
18日零時30分、すでにバンコク都と周辺の県に非常事態宣言が発令されていたわけだが、そのころの現場の雰囲気はむしろ、17日の午後9時から深夜にかけて警官隊との間で投石合戦や小競り合いがあった直接対峙のときに較べれば、はるかに落ち着いていたといえる。警官隊も、座り込んでいる市民から直接見える場所にはいない。パンファー橋の向こうから聞こえてくる、炎上している車のタンクの爆発音も、時折のものに変わり、音も小さくなっていた。しかし、そのころ橋の向こうでは今回の“五月の惨劇”のミステリーのひとつ、ナーンルーン警察署の炎上事件が起きつつあったのである。
同警察署は、外ラーチャダムヌーン通り(パンファー橋から西側、市民が座り込んでいた側は正確には内ラーチャダムヌーン通りと呼ぶ)に面していて、敷地内に児童青少年保護センターを併設しているため、バンコク都内の警察署の中では比較的市民にその名を知られているひとつだ。日本の霞が関にあたる官庁街にあり、幅広い外ラーチャダムヌーン通りをはさんで正面はタイ様式の農林農協省。そして、そのナーンルーン警察署が放火され炎上した事件が、そのときスチンダー首相の退陣を要求して座り込んでいた市民たちを“暴徒”と決めつける最大の“物的証拠”として再三使われることになる。
しかし、同警察署の炎上について、後日、現場近くにいた市民、報道関係者などから多くの疑問が出された。つまり、何度もすでに登場した“ムー・ティー・サーム”−−“当事者同士ではない何者か”が計画的に行ったか、もしくは警察自身および当時バンコクの治安維持行動の実権を握っていた首都圏秩序維持軍がこの警察署の炎上を仕組んだのではないか、という疑問である。
まず、その疑問の第一の理由として、ナーンルーン警察署の炎上したといわれる時間が、当局側の当初主張していたものと大分ずれていることがあげられる。初め、同警察署は、17日に首相退陣要求の市民と警官隊が実力対峙し、その後にバリケードが破られて消防車などに放火された前後、つまり17日の深夜から18日の零時前後に炎上したものといわれてきていた。また、パンファー橋の西側で座り込んでいた市民たちも、その時間帯は興奮した多くの人々が橋の向こう側に入っていたのを記憶しているので、そのときに警察署の炎上があったといわれると納得してしまう所があった。
ところが、実際にこのナーンルーン警察署が炎上したのは、18日の午前2時30分以降。前述した通り、17日深夜の市民対警官隊の直接対峙が落ち着き、すでに市民たちの一部は寝入っていたころなのである。同警察署近くで取材をしていた報道関係者や一部の市民はそのことを見て知っていたが、決定的証拠がなかった。しかし、その後、“五月の惨劇”究明の動きの中で発表された一枚の写真が、ナーンルーン警察署炎上のミステリー性を裏付けることになる。
それは、当初はすでに同警察署が炎上した後とされていた時間である午前2時20分に警察署のロビーで撮られた写真で、その時間を示す時計、奥の留置所の檻、そして国王・王妃の写真をもちだそうと外している若者たちが写っている。少なくてもこの時間には、ナーンルーン警察署はまだ炎上していなかったのだ。
そして、この直前、現場にいた『サイアム・ラット』紙の記者が、妙なものを見ている。同警察署の裏から集団でそっと出ていく、首のゴムの所だけ赤い白Tシャツを着た人々の群れである。このTシャツ、制服警官がその下に常時着ているものだということは、タイ人なら誰でも知っている。なぜ彼らが制服を脱いで、コソコソと同警察署から脱出したのか……。このような妙なこと出来事が、ナーンルーン警察署炎上事件のミステリー性を倍加していく。
(つづく)