■“ムー・ティー・サーム”はどこから来たのか?
スチンダー首相退陣要求運動の市民と、それと対峙していた国軍や警官隊の二者以外に存在していた“ムー・ティー・サーム”――強いて日本語に訳せば“当事者同士ではない何者か”。
ジャムロン他、17日の市民の隊列を率いていた指導者層が、小競り合い発生当初からその暗躍を指摘していたこの“ムー・ティー・サーム”の存在については、今だに不透明な部分が多い。
以前書いた通り、17日夜、王宮前広場から首相官邸前まで歩いていこうとした、宣伝カーに乗ったジャムロンらを先頭としたスチンダー首相退陣要求の市民がパンファー橋にさしかかって警官隊と対峙する以前に、同橋周辺ではすでに警官と“民衆”の小競り合いが発生していた。また、目撃者の証言や報道を総合してみると、この小競り合いの最中、パンファー橋たもとのプラガーン砦(かつてバンコク都防衛のために建設されたもので、現在は遺跡として保存されている)周辺で「タールン……!」(“このバカ野郎……!”に相当する)と盛んに警官隊に対して囃したて、周辺住民が放置していたオートバイに火を放っている一団が存在している。「タイ記者クラブ」が編集した『“五月の惨劇”記録集』に手記を寄せている『サヤーム・ラット』のC記者は、そこに「そのとき、自分の目を疑ったが、何と彼らは“プー・ピタック・サンティ・ラート”であった」と記している。
“プー・ピタック・サンティ・ラート”――“市民の平和を護る者”とは、警察関係者全般を指す美辞麗句である。
しかし、警備の警官隊を囃している以上、彼らは私服を着用し“民衆”を装っていたと考えられるのだが、それならなぜ警察関係者とわかったのかについては、この記者は触れていない。また、ジャムロンらを先頭とした首相退陣要求の市民がパンファー橋にさしかかる前にそこにいた目撃者の話では、酔っぱらった“民衆”の一団がそこにおり、彼らがさかんに「やっちゃえ!」と周囲の人々を鼓舞していたという
いずれにせよ、王宮前広場から首相官邸に向かおうとした市民が歩いてパンファー橋に至る以前にそこに“民衆”がおり、彼らと警官隊との小競り合いが起きていたことだけは確かである。しかし、その“民衆”がC記者のいうように、“民衆”を装った警察関係者なのか、市民の隊列から離れて先走ってしまった一団なのか、物見遊山の“ただの”酔っぱらいたちだったのか、あるいはそれらが重複的に存在していたのは不明である。またそれらが“ムー・ティー・サーム”としたら、予め組織されたものなのか、17日の状況の中で急遽形成されていったものなのか、も不明である。
前述した通り、パンファー橋での小競り合いには数回の波があり、その後に消防車が放火されるような事態に発展していく。その時点以降では、先に橋周辺にいた“民衆”と王宮前広場前から歩いて来た首相退陣要求の市民デモ隊の先頭部分は、混乱状態だったこともあり、もう区別がつかない状態だった。だが、少し状況が落ち着くと、混乱しているパンファー橋の向こうから戻って来た“民衆”を、こちら側で座り込みに徹していた市民たちが取り囲み、「なぜ挑発行為をしかけたんだ」と詰問する輪がいくつかできた。
警官隊とやり合ってきたという一人の青年が囲まれて詰問にあっているのを覗いたときに、その青年の目が完全にドーピング状態であったのが記憶に残っている。それが極度の緊張によるものなのか、アルコールや薬物によるものなのかはわからないが、異常な感じであったことは確かだ。青年は仏教団体の事故死体回収ボランティアが着ているような紺の上下を着て、首には金のネックレスを光らせている。彼はどこから来たのか、それはたずねる側の市民も興奮しており、それはたずねられずじまいだった。
零時を過ぎて18日(月曜日)に入り、窮地に陥っていた政府は電波メディアを使ってその“窮状”を“まだ何も知らない国民”に伝達しようとした。零時15分、「ジャムロンに率いられた市民がプーカオ・トーン消防署を破壊占拠」と全テレビ・ラジオ局が放送。同30分、バンコク都と周辺県に非常事態宣言発令。同46分、前日深夜、北部視察から急遽バンコクに戻っていたスチンダー首相名で、当局が首相退陣要求の市民に対して強硬手段を取ると声明。続いて1時30分、内務省が10人以上の政治集合禁止令を発令と、いった具合である。
現場で携帯ラジオをもっていたわずかな市民はこのことを知っていたが、10万人を超す人々の渦にそれは伝わっていかなかった。
しかし、国軍が座り込んでいた市民たちを“クリアー”(タイ語化している)するのではないかという不安の方は、徐々に浸透していった。
(つづく)