■国会憲法改正合意の反古騒ぎと『民主主義連合』の発足
5月11日の朝、ラーチャダムヌーン通りにはいつもの通り、通勤の自動車やバスの長い列ができていた。スチンダー首相退陣要求の市民運動が、10日の深夜になって“休戦”を宣言、同通りでの座り込みを解除したからである。5月中旬は14日のプーチャモンコン(始耕祭)と16日のウィサカーブチャー(仏誕祭)が続き、多くが仏教徒であるタイ人にとっては大切な時期。よって市民運動側も、ウィサカーブチャー直後の17日日曜日まで集会を開かないことを決断したのであった。
10日夜、プラテープの行幸が市民たちが待っていたラーチャダムヌーン通りを通らずに行ってしまった夜、民主記念党前でまた集会がもたれた。5月7日からの連続的な緊張から解き放された−−例えば死を賭したハンストを宣言していたジャムロンが妥協戦術に同意したこと−−せいか、ほっとし、明るい顔の市民が多い。日曜日の夕方ということもあって、子供連れやカップルも目立つ。前日までよりはずっと静かな集会で、5月4日からずっと顔を出しているような人から見れば、迫力の点で物足りなさを感じたかもしれないぐらい。
いいかえれば、“休戦”を受け入れる雰囲気ができていた。これはそのときに国会内外で繰り広げられていた、与野党間の調整による憲法改正への妥協作りに期待しようという雰囲気が市民の中に高まっていたことが非常に大きい。彼らはこの一週間、政治家に賭けてみようと思ったのである。
時間は前後するが、5月9日午後11時30分、アティット下院議長がテレビ・ラジオを通じ、与野党が憲法改正の方向で合意、危機を乗り切るにはそれしかないことを国民に対して強調ていた。これは同日午後2時に、下院を構成する与野党8党(以前からスチンダー首相退陣要求運動に対してふてくされていた、サマック党首のタイ市民党だけがこの会合に代表を送らなかった)の代表(党首とは限らない)が集まり、確認しあった結果である。覚めた目で見れば、首相退陣要求運動で過熱気味のジャムロンとパランタム党の“独走”を抑えたいと考えた他の野党のリーダーたちの根回しが成功したともいえる。
しかし、そのわずか3日後の11日、この憲法改正について与党側から不協和音が聞こえてきた。国民党議員で与党連合スポークスマンのニポンが、「合意は暫定的なもの」と発言したのである。これについて、9日の会合に国民党代表として出席して合意に賛意を示していたはずのソムブン党首はノー・コメント。この3日で何かが動いたのだ。この動きの裏に国民党の影のドン、バンハーンらがいるのはもはや確実である。国民党の中で反チャチャイ元首相派の親分格である彼はスチンダー政権の運輸逓信大臣を務めており、国民党で軍部および同首相との結びつきは強い人間だからだ。
続いて12日には、最大与党サマッキータム党が憲法で「首相は下院議員から」と改正されてもスチンダー首相の次回選挙までの留任を認めるべきだ、といいだした。憲法改正に合意した9日の会合を演出したアティット下院議長は同党副党首であり、これは同党が実質的に彼を“切る”ことも厭わない覚悟であったととっていい。後々のアナン首相指名まで、アティットは徹底的に与党幹部たちから苛めぬかれることになる。
政治家の裏切りには慣れていたせいか、市民運動の指導者たちは憲法改正合意をめぐる茶番劇にいちいち怒るよりは、“休戦中の”一週間はたんたんと自分たちの運動拡大に力を集中させた。首相退陣要求の市民運動は14日に25グループ120人が参加して会議を開き、『民主主義連合』を結成、17日の王宮前広場集会の主催母体となると発表した。
ジャムロン前バンコク知事、パリンヤー『タイ学生評議会』議長、プラティープ『ドゥアン・プラティープ財団』元理事、元学生運動指導者で国立大学病院医師のサンとウェーン、労働組合運動のソムサック、そしてその時点もハンストを続けていたチャラート元民主党議員の娘チットラワディーの7人が世話人に。民主主義に関しては、不退転で知られる人々である。
(つづく)