■FM局ジョー・ソー100への期待と失望
5月9日夜、民主記念塔前のスチンダー首相退陣要求市民集会には十万近い人が集まった。前夜のパンファー橋での市民と警察および軍との対峙を新聞で知った市民たちが、決意した感じで現場に駆けつけて来たからである。携帯電話を集会の中でかけ、「解散したというのは嘘だ、来れば分かる」と友人を誘っている参加者もいた。
その集会の様子を、陸軍系FM局ジョー・ソー100MHzのリポーターが現場から生中継した。政府と軍部からの強いコントロールを受けていた電波メディアは、それまで市民側の動きをダイレクトに伝えることはしていなかった。
しかし、8日夜の対峙の様子は新聞、口コミでバンコクの市井に伝わりつつあり、電波メディアも黙りを決め込むことはむずかしい状況になってきていたといえる。
同局はテレビ・ラジオの人気キャスターで元チュラロンコン大学講師という経歴のソムキアット率いるパシィフィック・コーポレーションが制作を担当する、バンコク交通情報を専ら放送するFM局。聴取者の多くは自家用車をもっている層、つまり中間層である。集会の司会者が、携帯ラジオをもっている人はジョー・ソー100MHzに合わせるように、と呼びかけた。
聞いてみると、会場にいる女性リポーターとソムキアット自身がかけ合いをしていた。しかし、彼も政治的な内容は微妙に避けていた。「人がとても多いが平和的」とか「会場の食べ物の屋台は、無料なのかお金を払うのか」と彼が聞いたり、差し障りのない話が続く。しかし、電波メディアの先陣を切り、首相退陣要求の市民運動がまだ解散していないことを伝えたことは評価できた。しかし、このジョー・ソー100MHz、翌10日は一転、市民側非難の論調になり、市民たちを失望させ、その怒りを買うことになるのだった。
その5月10日の日曜日は、プラテープ(シリントーン王女)が、チットラダー宮殿から市民たちが座り込んでいるラーチャダムヌーン通りを通過して王宮前広場で行われている仏教週間の儀式に行幸することになっていた。なので、9日夜の集会から、ジャムロンらは「我々の方が王室に対する敬愛が強いことを示そう」と、10日は座り込みを一時期中止して行幸を迎えることを呼びかけていた。
10日は朝からラーチャダムヌーン通りの清掃が、市民とバンコク都の清掃員の双方の手によって始められ、座り込みに使った新聞紙で埋まっていた道路はあっていう間にきれいなった。車道に張っていたテントは歩道にあげ、「王室に繁栄を」と書かれた紙のタイ国旗が市民に配られる。メガホンをもった指導者が、抗議の黒い鉢巻きやバッジ類を外し、大きな音を立てないように指示をして歩く。「王女行幸の歓迎の中に黒い鉢巻きがあった」、と難癖をつけられる可能性があるからだ。
こうして10日の昼すぎには、ラーチャダムヌーン通りはまっさらになった。そのとき路上に残っていたのは、パンファー橋の上の軍が敷いた鉄条網だけである。
しかし、前夜は画期的な集会からの中継を放送したジョー・ソー100MHzや同じく陸軍系テレビの5、7チャンネルは、市民側が道路に座り込んでいるため王女の行幸が通過できない、と繰り返した。ジョー・ソー100MHzは聴取者からの電話コメントを放送したが、「路上の危険を避けるための王女をヘリコプターに乗せるべきだ」というような、市民運動側を牽制する内容のものが多かった。市民側は、放送局に抗議の電話を集中した。
ソムキアットは後に新聞のインタビューでそのときのことに触れ、自分が局に不在だったことを強調した。しかし、以前のリベラル派キャスターとしての彼の人気は、これで地に落ちてしまっていた。
■来なかったプラテープの行幸
市民たちは最初午後3時と知らされていた行幸を、暑い中、今か今かと歩道で待ちわびた。しかしプラテープの行幸はいつまでたっても来ない。
午後4時過ぎ、無人になっていたラーチャダムヌーン通りに、突然車が走り始めた。行幸を待っていた市民たちは驚き、車に「邪魔をするな」と罵声を浴びせたが、実はこれは市民側指導者の判断であった。車を走らせることで電波メディアが嘘をついていることを実際に知らせよう、という戦術である。それが伝わると、市民は通過する車に手を振って歓迎した。
しかし、パンファー橋のバリケードは夕方6時を過ぎても撤去されなかった。つまり、プラテープの行幸はラーチャダムヌーン通りを通過しなかったのである。行幸一行はトンブリ地区を迂回して、王宮前広場に向かったのである。市民の中には残念そうな人もいたが、ほっと安堵した顔もある。5月7日から続いていた緊張に、一区切りついた感があるからだ。
(つづく)