果たして野党議員たちは議場から出て、国会前の市民運動のステージに拍手で迎えられ登壇した。新希望党のチャワリット、民主党の古株プラジュアップ……。抗議の意思を示す黒の喪服姿である(民主党党首チュアンは普通のスーツ)。しかし、チャワリットが長々と演説するのではないかと思われたが、意外、「闘い続けよう」と一言いっただけでステージを降りてしまった。パランタム党議員や他党の若い議員が、元気よく市民に応えていたのとは対照的。野党で国会外の市民運動と一番連動しているのはジャムロン率いるパランタム党であり、チャワリットとしてはそこに多少のスタンスを感じたのかもしれない。
国会前の市民は、午後遅くになってから急に人数が増えた。仕事をもっている人が、勤めを終えてから合流しているからである。1973年の学生革命を担った活動家の顔も見えた。3年後の76年の反動クーデターで解散を余儀なくされたNSTC(タイ学生センター)のリーダーだったクリアンカモン、同じく学生代表として日貨排斥運動の中心にいたティラユットら。タイのカウンター・カルチャーを代表する詩人ワッサンや、カラワン楽団のスラチャイの顔も人並みの中にいた。
同夜、『学生評議会』『民主主義キャンペーン委員会』のメンバーが厳戒中のスチンダー首相宅を訪れ、事態収拾のため翌7日正午までに辞任を求める手紙を届けている。スチンダー首相の家は国会のすぐ裏、国軍最高司令部の斜向かいにある。むろんスチンダー首相は現れず、代理人が受理をした。
5月7日は6日を上回る市民が国会前を埋めた。だが正午を過ぎてもスチンダーは辞任要求などどこ吹く風という感じで、国会において退陣要求市民運動を強い調子で揶揄した。
「国会の外で騒いでいる人間たちはプレシディアム(旧ソ連の国家最高評議会)方式の共産主義的政治を目指している」
と暗にチャワリットを批判し、
「仏教を破壊しようと企む新宗教から仏教を守るよう多くの仏教者から要請を受けた」
とこれも暗にジャムロンを批判した。
チャワリットは陸軍が過去に行った共産党勢力掃討のとき、投降した者は恩赦を与えるという柔軟戦術で臨み、成果を上げ出世した将軍。そのときに、元共産党幹部と行き来があった。
ジャムロンは、釈迦の教えへの忠実な回帰を指向し、現代仏教の腐敗を批判しているサンティ・アソーク派の支持者。同派はタイ仏教サンガから異端宣告されている。スチンダーはタイ国民にとっても既知のこのふたつのエピソードを利用して二人の評判を落とし、退陣要求運動の牽制をねらったのだ。
同夜、このスチンダー発言に反発して、さらに多くの市民が国会前からラマV世騎馬像前広場周辺に集まった。1976年の反動クーデター以後は英国に亡命している元国立銀行総裁プオイの息子ジョン(現在はエイズ救援NGO『アクセス』代表)など、今までは積極的に発言してこなかった人々までが壇上に立ち、スチンダー退陣を呼びかけた。また与党国民党議員のレーウット議員(プーケット島で公害の恐れのあるタンタラム工場の焼きうちを指導したとして有罪判決を受けている)が国会内から外に歩み出て、民主化要求運動に連帯を表明するハプニングもあった。
この夜、ジャムロンは、会場が狭く市民が苦しそうにしているのは忍びないという理由で、同夜中に集会場所を王宮前広場に再度移すことを『学生評議会』『民主主義キャンペーン委員会』に提案。しかし、すぐに動くことには反対が強く賛同が得られなかったが、国会前の集会半ばでジャムロンは独自に待機中のバンコク中央病院(都立病院)の救急車に乗って移動を始めてしまった。集会は続けられたままだが、ジャムロンについて行こうとする市民も多く、フランス・デモの形で数万人が五月雨的に王宮前広場に向かった。そのとき、後に軍・警察との衝突現場となるパンファー橋を通過したが、誰もが後日にあのような血の惨劇が起きるとは思っていなかったに違いない。
同じ7日、カセート国軍最高司令官が国家治安維持本部司令官名、イサラポン陸軍最高司令官が首都圏治安維持本部司令官名で、スチンダー首相退陣要求運動に対して解散するように求める初めての警告を発する。
しかし翌日8日の王宮前広場には、多くの市民が集まった。テレビなど電波メディアの偏向放送に気がつき始めた人々が、この目でハンストをしているジャムロンやチャラート元民主党議員(その時点で約1カ月のハンスト敢行)の姿を見ようとやって来たからである。
8日に皆を驚かせたのは、ジャムロンがハンストで体力が衰えたことを理由に、プラソン元新希望党幹事長を個人的スポークスマンに指名したことである。かつて国家安全評議会事務局長だったプラソンは、共産党掃討時代からのチャワリットの親友。しかし数カ月前に彼と衝突、党も辞め袂を別っている人物。そんな人物を身近に配したジャムロン、現在は反スチンダー首相で野合しているものの、チャワリットとの関係が微妙なことを示唆している。
8日午後8時。十万人にふくれあがっていた集会から、ジャムロンがラーマV世騎馬像広場に向けて出発。彼についていった市民が、パンファー橋で警察官部隊と最初の対峙を見、そこに座り込むことになる。
(つづく)