前日から警官隊のブロックにあい、同通りに座り込んでいた「スチンダー首相退陣要求」の市民数万人に国軍が何の警告もなしに突然発砲したのである。
デモ隊と対峙していた国軍の最前線には陸軍対空攻撃部隊が配置されており、赤い閃光は高射砲弾の曳光に違いない。直後にM16自動小銃を持った兵士の列がデモ隊に向かって発砲、市民数人がバタバタと倒れていく。またヘルメットを被っていない高級将校達はオートマチック・ピストルを抜き、デモ隊の宣伝カーの上にいた指導者達をねらい撃ちにした。
これが政府も認める数で市民50余人の死者、同1000人近い負傷者を出した「バンコク:5月の3日間(5月17日−19日)」の流血の惨事の始まりである。この間の事実経過そのものについては、タイの新聞(特に英字紙)や日本語メディアも詳しく報道したので繰り返さないことにする。
しかし、タイ人でないものにとって今回の出来事をきちんと理解するためには、いささかの背景補足が必要と思われる。その視点から、惨劇と化した5月の3日間とは何だったのか、その前後も含めもう一度振り返ってみることにしたい。
■5月4日「首相退陣要求」の市民運動に狼煙
1991年2月、『国家治安維持評議団』を名乗るタイ国軍幹部がクーデターを敢行、当時のチャートチャイ首相を逮捕、憲法を無効化する。タイでは1984年のマヌーン大佐(当時)によるクーデター未遂を最期に、経済成長と社会意識の変化にともない、「もう軍部のクーデターによる政治介入はない」と言われてから久しかった。そのため、無血クーデターではあったが、それがタイ人とりわけ順調な経済成長を画していた経済界に与えたショックは大きい。
長期的に見れば、今回の出来事の種はこのときすでに蒔かれていたといえる。
しかし、直接に市民を「首相退陣要求」運動に立ち上がらせる契機は、翌1992年4月7日のスチンダー前陸軍司令官兼国軍最高司令官の「落下傘降下的」首相就任であることは間違いがない。寸前まで首相にはならないと公言していながら、あれほどに露骨な形で他の候補者を押し退け、その座に就いたことで、普段は政治に余り関心を持たない市民層までが「嘘つき」と激怒したからだ。
そして最終的に、今回の「首相退陣要求」運動の狼煙に火が灯されたのは、5月4日。王宮前広場の集会において、ジャムロン前バンコク知事が「完全ハンスト宣言」を行ったときだと言える。
その意味で5月4日の集会に参加していた市民層について知ることは、今回の出来事を把握する端緒であると考えられる。まず、その点を補足してみたい。
王宮前広場北側に作られた集会の演壇の垂れ幕には「アヒンサー(非暴力)」、司会者も「サンティウィティ(平和的手段)」による行動を盛んに訴える。
この司会者はタイのある開発NGOグループ連絡調整組織の代表者で、この集会に開発NGOグループも大きく関わっていることを示していた。
最近(注:1992年当時)タイの開発NGOグループは軍部が実行部隊となっているコー・ジョー・コー(農民を新天地に移す名目で強制移住させている囲い込みプロジェクトで、ユーカリ植林地確保が本当の目的といわれている)への反対運動を展開したり、3月の総選挙では政府と民間が共同で設けた中央選挙監視委員会の現場調査スタッフをその地方ネットワークで担うなど、以前よりアドボカシー活動に力を割いてきていた。
開発NGOグループは中央選挙監視委員会の民間側の中心にいた人権活動家コートム・チュラロンコン大学教授らが呼びかけた『民主主義キャンペーン委員会』(5月17日の集会から市民運動の母体となった『民主主義のための連合』とは別組織)と歩調を合わせ、今回の「首相退陣要求」運動のひとつの要となっていたのである。
またマグサイサイ賞受賞のスラム開発活動家で、スラム開発の財団理事を辞してまで積極的に「首相退陣要求」運動に加わったプラティープ元ドゥアン・プラティープ財団理事のような存在も、開発NGOのアドボカシー活動を指向する動きを表しているといえる。開発NGOや『民主主義キャンペーン委員会』はマグサイサイ賞受賞のプラウェート医師やラピー元カセサート大学学長などのリベラル派の文化人と意見を同じくし、真っ向から「スチンダー首相退陣要求」を掲げるよりは「首相は選挙で選ばれた下院議員からに憲法改正を要求していく」ことを第一の目標とし、暴力的な対立をもたらす挑発が生まれることを絶対に避ける方針を明確にしていた。
(つづく)